エーリッヒ・フロム『愛するということ』("The Art of Loving", Erich Seligmann Fromm)について理解を深めるため、「『愛するということ』から考える」というマガジンを作り、細かくテーマを立てつつ考察を行っていく。
この試みの中で哲学的思索の射程を伸ばして、下鴨ロンドでの自主哲学読書会においても、日常での生活においても、自分自身を含んだひとびととの対話・関わりに活かせると良いなと思う。
執筆者覚書
『愛するということ』は1956年初版ということもあり、内容にいくつか誤謬が認められると考える。今までのところ、以下の点に注釈しながら読み進めている。・当時の常識や宗教的理解に影響を受け、同性愛について「正しい愛の形ではない」という理解の誤謬がある。・文中で用いる「母親」「父親」という語はあくまで人間的父性、母性の性質だとしながらも、男性役割、女性役割を強く感じさせる記述が多い。母親、父親、女性、男性を「人間」に置き換えて読むことで、現代において、より力のある文章となろう。
第5回テーマ:人間性を二極化することへの批判
人間性は、ともすると男女に二極化されがちである。現代においてその様相は多少弱まったとはいえ、男性らしさを過剰に主張するバックラッシュ的な反動も日本を含むいくつかの国で見られる。1956年に著されたフロムのこの著作も、男性的性欲(リビドー)を中心に据えるようなフロイトの論から一歩語り進んでいるとはいえ、人間性を単純に二極化して論じているように見える。
“フロイトは、愛とは性的本能が昇華されたものだと言ったが、けっしてそうではない。愛は友愛からじかに生まれるものであり、肉体的な愛にも精神的な愛にも含まれているものだ。”
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, 39%
“男性と女性という二極性は、人間が人間を創造することの基礎でもある。”
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p57
「常識、当たり前を疑う」ことが仕事の一部である哲学者たちの多くが、ことジェンダーの話題になると非常に無反省に、世間的意見に迎合しているように見える。私はこのことに強い疑念を抱いている。この哲学界の問題は、基本的に、健康な男性のみを哲学者として認めてきた/認めてきている現代において、いまだ論究すべき課題と考える。
フロムが人間の二極に見た機能
とはいえ、「人間には男性と女性という二極性がある」と言うフロム自身が、同じ著作内で「この二極性は、働きかけと受容という二つの基本的機能の二極性として存在している」と言い換えている部分がある。
”これと同じ男女の二極性は自然界にも見られる。動物や植物の場合はあきらかだが、それだけでなくこの二極性は、働きかけと受容という二つの基本的機能の二極性として存在している。“
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p57
ここで疑問なのが、働きかけと受容という二極性をなぜ男女に割り振らなければならないのか、という点だ。日常を振り返ってみても「子どもの失敗や過ちを忍耐強く優しく見守る父親(フロムが女性的とする要素の強い父親)」や「子どもの過ちを厳しく指導する母親(フロムが男性的とする要素の強い母親)」がいるのは想像に難くない。むしろ歴史的に見て、(特に幼い頃の)子どもの養育に携わらない父親が多かったことを考えると、幼少期において受容と働きかけ双方を行う主体は母親であったと考えられる。フロムは「男性的性格の特徴は、働きかけ、指導、活動、規律、冒険といった性質をもっていることであり、女性的性格の特徴は、生産的受容、保護、現実性、忍耐、母性といった性質」と述べているが、子どもの養育及び教育に際して、「働きかけ、指導、活動、規律、冒険」を母親的役割を持つ者が行わないことがありうるだろうか。私はここに、子どもの養育に対する基本的な無理解、もしくは認識の錯誤があるように思えてならない。
このように、フロムが女性のものとしている「受容」性質を多く持つ男性もいれば、男性のものとしている「働きかけ」性質を多く持つ女性もいる。また、子どもの養育を考えると、「受容」「働きかけ」双方の性質をひとりの人間が用いる状況も容易に想像できる。とすれば、「男性的」「女性的」という枠に一体何の意味があるのだろうか。
精神的性質を男女で二極化する問題性
ただ、おそらくフロムも、男女を単純に二極化することの問題性に全く気付いていなかったわけでもないだろう。
”(ただし忘れてならないのは、男女とも両性の特徴が混じりあっており、男は男性的性格が、女は女性的性格が優勢であるにすぎないということだ)。“
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, 26%
このようにフロムは「優勢である」という言い方をしている。1900年代半ばの世界に生活し、「受容」「働きかけ」を男女に切り分けるのであれば、このように論じたくもなるのかもしれない。しかし、現代においてはもはや「優勢である」とも言い難く、また何よりそう断じてしまうことで、このフロムの論に当てはまらない人間を世界から排斥することになる。これらの理由から私は、精神的性質について語るとき、男女で切り分けない方がよいと考えている。
繰り返しになるが、「受容」「働きかけ」といった性質を男女に分けて論じることの最も大きな問題点は、(フロムの言う)男性的な要素の少ない男性と(フロムの言う)女性的な要素の少ない女性は、どちらも不健康もしくは病気と定義されることである。実際に、フロムの考えに綻びを生じさせる同性愛は、本文中で「逸脱(異常な状態)」と見なされている。しかしそのように、身体的性差をそのまま精神的性差に落とし込もうとすること自体に無理があるように思える。
(補足:ここで私は、精神的性差を男女という枠で切り分けない方がよいのではないか、という議論をしている。しかしそれは、身体的性差も無視してよいということでは全くない。身体的特徴の違いはもちろんある。特に、男女の身体には腕力差がある。なので、プライベートスペースの区別や競技分類の男女別は保存されるべきである。この辺りの議論は昨今、全当事者の意見を考慮することなく性急に進められているように見える。)
精神的性質を人間性として捉え直す
ひとりひとり異なる人間を歪みなく眼差すには、個別性を見えなくする枠よりも、個別性を眼差すことのできる枠を模索していく必要がある。私は「受容」「働きかけ」どちらの性質も、私たちの持つ価値高い人間性の一部と見なすべきなのではないかと考える。「受容」も「働きかけ」も、人間性の一要素であり、また、それらの性質の濃淡は個々人で異なっている。そのように概念定義を捉え直すことで、「受容」の性質の強い女性も男性も、「働きかけ」の性質の強い女性も男性も、高い人間性を備えるひとりの人間として捉えることができるだろう。そうすることで、高い人間性を備えた人をその身体的性別ゆえに正しく評価できないということは無くなるだろう。そしてその、「目の前の人をできるだけ歪みなく眼差そうとする姿勢」は、尊重、愛と同一線上にあるのではないだろうか。
(追記:ここでは『愛するということ』における、精神性質の二極的理解の問題点について考察したが、このことはフロムの後の議論にあまり影響しない。何故なら、彼の「愛」理解は友愛を基礎としているからだ。友愛を「愛」の基礎とする以上、今回扱ったような二極的理解は、その議論上では後景に引く。また、恋愛そのものについて述べている章でも、彼自身が定義している男女の精神的差異については不思議なほど言及がない。さらに、本書で述べられるフロムの恋愛概念は、(フロムによる直接の言及はないが)同性愛も包含するものである)
参考文献:
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011778
Photo by Nika Nishimura
下鴨ロンドにて
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