エーリッヒ・フロム『愛するということ』("The Art of Loving", Erich Seligmann Fromm)について理解を深めるため、「『愛するということ』から考える」というマガジンを作り、細かくテーマを立てつつ考察を行っていく。 この試みの中で哲学的思索の射程を伸ばして、下鴨ロンドでの自主哲学読書会においても、日常での生活においても、自分自身を含んだひとびととの対話・関わりに活かせると良いなと思う。 執筆者覚書 『愛するということ』は1956年初版ということもあり、内容にいくつか誤謬が認められると考える。今までのところ、以下の点に注釈しながら読み進めている。・当時の常識や宗教的理解に影響を受け、同性愛について「正しい愛の形ではない」という理解の誤謬がある。・文中で用いる「母親」「父親」という語はあくまで人間的父性、母性の性質だとしながらも、男性役割、女性役割を強く感じさせる記述が多い。母親、父親、女性、男性を「人間」に置き換えて読むことで、現代において、より力のある文章となろう。
第3回テーマ:尊重とは、相手が唯一無二であると知ること
「他者を尊重しましょう」という言葉は近年よく用いられる。確かに大切なことだ。だが、「人を尊重する」とはどういうことなのか?
“尊重は恐怖や畏怖とはちがう。尊重とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。”
引用:エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p50
“とうとびおもんじること。価値のあるものとして大切に扱うこと。そんじゅう。”
引用:コトバンク, 「尊重」精選版 日本国語大辞典の項から, https://kotobank.jp/word/尊重-555936#goog_rewarded
尊重とは、相手の存在そのものを価値あるものと知覚し、そのように扱おうとする姿勢といえよう。尊重という態度は決して、恐怖や畏怖から腫れものに触るように接する態度ではない。軽蔑や嘲笑の反語でもない。また、相手に価値があると「認める」態度でもない。相手の意思、こころ、権利、生、現在の在り方すべてに、価値が横たわってると「知る」態度である。その価値は不可分なものであり、誰かが認めなければ無くなる類のものでは決してない。私たちが相手を尊重できないと思うとき、価値は常にそこにあるのに関わらず、何らかの要因によって、私たちの眼が価値を眼差すことができなくなっているのである。
「価値」という言葉の定義
ここでひとつはっきりさせておきたいのは「価値」という言葉についてである。ここで述べている価値という語は、金銭的、経済的価値とはなんら関係がない。また、交換経済的な価値(価値を提供することによって、なんらかの対価を得られる価値)ともなんら関係がない。ここでいう価値とは、相手の存在の唯一無二性を知る(知覚する)ことによって、生起してくるような、兆してくるような価値である。例えて言うなら春の終わり、川沿いに立ち並ぶ木々の葉や花が夕陽に照らされ薄く透けているのを見て、心の内から湧いてくるうつくしさへの感謝のような、精神的な糧、精神的な栄養、精神的な価値である。今回のテーマから逸れるのでこれ以上詳しく論じることはしないが、これらの精神的な価値無くしてひとは生きられない。
資本主義、経済主義が支配的な現代にあっては、価値という言葉は即座に金銭的、経済的、交換的価値に置き換えられやすい。なので、ここではっきりと否定しておく。私が用いる「価値」は、経済的、金銭的、交換経済的価値ではない。私がここで用いる価値という語は、真に生きるために、真に愛するために、真に他者を尊重するために必要な精神的な価値、精神に対する価値である。
執筆者補足一
また、この思考について、聖書における以下の文言が現代においては似た形(“わたしの目にあなたは価値高く、貴く、わたしはあなたを愛する”)で用いられている。部分引用するには若干問題のある箇所だが、連綿とした思考と実践の集積である宗教観念の発展の一例として挙げる。
“わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。”
引用:聖書 新共同訳「イザヤ書 43:章4節」
https://bible.com/bible/1819/isa.43.4.新共同訳
執筆者補足二
また、目に見えるもの(貨幣や物質)以外の目に見えないもの(精神的な価値)に目を向けることを促す文言に以下のようなものもある。
“わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。”
引用:聖書 新共同訳「コリント人への第二の手紙 4章18節」https://www.bible.com/ja/bible/81/2CO.4.18.JA1955
執筆者補足三
交換ではない価値について考えを深めたい方には、哲学読書会でも扱った『贈与論-資本主義を突き抜けるための哲学』を参照されたい。
参考書籍:岩野卓司, 『贈与論-資本主義を突き抜けるための哲学』, 2019年,
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3343
関わりにおいて「尊重」を実践する
尊重と価値ということについて理解した後でも、難しい関わりの課題が残る。それは、私たちがふとした瞬間に、相手の意思よりも自分の意思と意図を優先してしまう、ということだ。相手の意思を尊重したいのであれば、こちらの意図を滑り込ませるべきではない。身近な例で言うと「ついアドバイスしてしまう」「つい、こちらの価値観が普遍的な価値観であるかのように語ってしまう」ということがある。それらの言動は相手の意思や世界観の価値を軽んじてしまい、尊重の態度ではない。
“尊重とは、他人がその人らしく成長発展していくように気づかうことである。したがって尊重には、人を利用するという意味はまったくない。私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で成長していってほしいと願う。”
引用:エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p50
尊重という概念の中に「利用」は、意図的にであれ無意識的にであれ、差し挟まれる余地はない。尊重の行為は、願い、祈りに付随する言動ではなかろうか。その人の判断や自己決定を見守り、その人自身にとってすべてがより善く進んでいくことを願う。その願い、祈りが、延いてはあらゆる言動に反映される。その結果、「尊重する」という態度が実現される。(ここで用いた「利用」という語は、一方に合意のない関係、もしくは強制的、強権的、洗脳的合意しか認められない関係性を意図している)
愛する人への尊重
関わりの課題に関して、もうひとつ。愛する人に、私のために変化してほしいと望むことは、(時に自然な感情だが)、尊重でもなく愛でもない。それはひとりの、自己意思を持つ人間に対する支配的感情の表れであろう。「支配」「利用」の概念の触れ合うところに尊重も愛も存在できない。
どのような形で飾られていようとも、愛を向けられた人が受け取りたいと思えないような願い、言葉、行為はすべて、相手への尊重がそこにはなく、愛としては成り立たないと考える。愛は相互授受の可能性を持ち得て初めて、愛たりうるのではないだろうか。
自己尊重、他者尊重から愛へ
“いうまでもなく、自分が自立していなければ、人を尊重することはできない。つまり、松葉杖の助けを借りずに自分の足で歩け、誰か他人を支配したり利用したりせずにすむようでなければ、人を尊重することはできない。”
引用:エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p50
これまでの考察でも考えてきたことから論ずるに、ひとは主体(唯一無二性)を自ら持ち、自らを愛することができて初めて、他者の唯一無二性の価値を知り、尊重し、愛することができる。自分で自らに照射した愛と尊重のひかりを反射することでしか、ひとはひとを適切に愛せないのではないだろうか。月は自ら光らない。私たちは、ひとりひとりにとっての陽光(自己主体性、自己意思、唯一無二性)を見出し、そのひかりを受け取る(自らを愛する)ことで、そのひかりで他者を照らす(他者を愛す)ことができる。「(自分で)自らを愛する」という能動性を理解しない間には、「(自分で)ひとを愛する」という能動性を理解することもできないのかもしれない。フロムが述べているこの考えには、実感が伴う。尊重は人間の関係のはじまりであり、友愛が基底となるすべての愛はその尊重の地平上に存在するものだ。
追記
「友愛がすべての愛の基底」であることについても別の箇所でフロムは述べている。このテーマについては、また別の回で論じたい。
参考文献:
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011778
Photo by Nika Nishimura
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