エーリッヒ・フロム『愛するということ』("The Art of Loving", Erich Seligmann Fromm)について理解を深めるため、「『愛するということ』から考える」というマガジンを作り、細かくテーマを立てつつ考察を行っていく。
この試みの中で哲学的思索の射程を伸ばして、下鴨ロンドでの自主哲学読書会においても、日常での生活においても、自分自身を含んだひとびととの対話・関わりに活かせると良いなと思う。
執筆者覚書
『愛するということ』は1956年初版ということもあり、内容にいくつか誤謬が認められると考える。今までのところ、以下の点に注釈しながら読み進めている。
・当時の常識や宗教的理解に影響を受け、同性愛について「正しい愛の形ではない」という理解の誤謬がある。
・文中で用いる「母親」「父親」という語はあくまで人間的父性、母性の性質だとしながらも、男性役割、女性役割を強く感じさせる記述が多い。母親、父親、女性、男性を「人間」に置き換えて読むことで、現代において、より力のある文章となろう。
最終回テーマ:何を信じ、どのように生きるべきか
“愛の技術の習練には、「信じる」ことの習練が必要なのだ。
「信じる」とは何か。「信じる」というと、神や宗教の教義への信仰心がまっさきに頭に浮かぶが、そのことなのだろうか。”
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p180
愛するために「信じる」力が必要であるとフロムは述べる。そして、「信じる」という概念を「根拠のない信念」と「理にかなった信念」に分けて論じていく。
”根拠のない信念は、ある権威、あるいは多数の人びとがそう言っているからというだけの理由で、何かを真理として受け入れることだ。それにたいして、理にかなった信念は、大多数の意見とは無関係な、自身の生産的な観察と思考にもとづいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。”
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p182、183
友を、家族を、人類を、ひとを愛することに「信じる」力や意思が必要不可欠であることは理解できる。ただ、「自身の生産的な観察と思考にもとづいた、他のいっさいから独立した確信に根ざ」す信念という表現は抽象性が高く、すんなりとは理解できない。
ここで言われる「自身の生産的な観察と思考にもとづいた」とはおそらく、自身の実体験と思索に基づく受け売りでない思考を根拠とする、という意味ではないかと思う。「世間がこう言っている」「教義にそう書いてある」「親や身近な人がそう言っている」「本に書いてあった」といった思考の受け売りや放棄から距離を置き、できる限りあらゆる事象において、自分の頭と身体で考えた結果として辿り着いたその人なりの信念のことを、ここでは「理にかなった信念(根拠のある信念)」として扱っているように受け取れる。もちろん、自分ひとりで独善的に、自分勝手に考えることは思索ではない。世間、教義、周囲の人の考え、本の知識を得ながら、それらを批判し、自分の頭で反芻して考えることが、理にかなった信念を保つために必要になる。「批判する」とは、自分が相手の意見のどの部分については同意できて、どの部分については反論や意見があるか、またその反論や意見は具体的にどういったものなのか、を考えていく作業のことである。批判を通して、自分がどういった価値観を持っているか、何に対して偏見があるか、自分が今世界をどのように捉えていて、本当はどのようなものと捉え直したいか、が見えてくる。そうすることで、自己に根ざす信念が見えてくるのではないだろうか。
理にかなった信念が影響を及ぼすもの
「理にかなった信念」に画一的な正解はない。互いに重なり合う部分はあるかもしれないが、個々人の信念は個々人に根ざすものとなり、ひとの数だけ存在するだろう。
そして「(自らの経験を下地に何かを)信じる/信じようとする」という理にかなった信念、および態度は、日常生活の中で自らにも他者にも響き、波及していく。
“同じ意味で、私たちは自分を「信じる」。私たちは自分のなかに、ひとつの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。どんなに境遇が変わろうとも、また意見や感情が多少変わろうとも、その芯は生涯を通じて消えることなく、変わることもない。”
(中略)
“自分を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念をもっている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。”
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p184
これまでの考察において「他者を愛するためにはまず自らを愛する必要がある」と述べてきた。ここでもまた、似た構図が現れる。「他者を信じて誠実に関わるためには、まず自分を信じることができる必要がある」と。
自信を持てないとき、つまり自らを信じることができないとき、私たちは思いをうまく表出できなくなる。落ち着いてその場にいることができず、何を発言すべきか頭の中で逡巡し、過剰に相手の様子を推し量り、言葉に詰まり、時には捲し立ててしまう。それは、自分を信じられない心持が影響して、自身の言葉も、他者のことも、信じきれなくなっているからである。
わたしたちは、生きているとしばしば自信を失う。自分で自分を信じられない状態に陥り、確たる自己認識を持てなくなり、他者のことも信じきれなくなる。自分の考えや言葉に対する自信を失い、他者に表明してよいものだと思い切れなくなる。また、他者のことも、こちらの思いや考えを受け止めてくれる人物だと信じられなくなる。その結果、自分に対しても他者に対しても誠実であることが難しくなる。
つまり、自信を喪失した状態、信念を持たない状態では「自分の信念に照らして、心の赴くほう*へ進み、言うべきことは言い、拒絶すべきことは拒絶する」という自分に誠実な関わり方ができなくなる。また、自信を喪失した状態、信念を持たない状態では他者評価依存に陥りやすく、他者に対して対等に関わることが難しくなる。結果として、愛することの土台である「お互いに尊重し合うことのできる誠実な関係性」の実現が遠のく。
「信じる」ことの困難
と、ここまで「自己を、他者を信じる」ことの重要性を述べてきたが、そのどちらも、決して容易なことではない。「信じる」ことは理想状態であり、現実において安定的に達成できるものではない。わたしたちが生きる現実は、「信じる」という理想状態に向けて、生涯をかけて近づいていこうとし続ける営みといえるだろう。それは、キリスト教におけるアガペーの概念に近い。キリスト教において「愛」はアガペー、フィリア、エロスの3種類として扱われる。エロスは「人の欲求(自分にとって価値あるものを求める欲)」を表す。フィリアは「友との愛(対等な関係性における親愛)」を表す。そしてアガペーは「神から人間への愛(見返りを求めず与え続ける愛)」を意味する。エロスとフィリアは人間にも備わっているが、アガペーは神のものであり、人間が実践することは本来不可能なものである。だがキリスト教においてひとは、愛の理想状態であるアガペーを目指すよう説かれる。もちろん、神の愛、与え続け決して見返りを求めない愛は、人間には基本的に達成できない。しかしそこで、理想に到達しないからといって理想を諦めるのではなく、理想に到達しなくとも、生涯をかけてできうる限り理想に近づいていく姿勢を選ぶことが求められている。そうすることで、ひとは人間性を高めていくことができる。フロムの述べる「信じること」「愛すること」においても、同じことが言えるのではないだろうか。小説家カフカが、「救いがもたらされることは決してないとしても、ぼくはしかし、いつでも救いに値する人間でありたい」*と言ったように、愛することや信じることの理想状態に到達し、死まで腰を据えて落ち着くことは決してできないとしても、理想を諦めず、求め、思索し、行動し続けることは人間にもできることだと、わたしは考える。
“私が証明しようとしたのは、愛こそが、いかに生きるべきかという問いにたいする唯一の健全で満足のいく答えだということである。”
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p197
参考文献:
心の赴くほう* / 「第2回愛する前にまず自分自身を目的とする『愛するということ』から考える」における「自らの心の赴き」からhttps://note.com/nnwwjd/n/n8a7fcdb1bfd1
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011778
*頭木弘樹 編『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ』草思社, 2018年, https://www.soshisha.com/book_search/detail/1_2336.html
Photo by Nika Nishimura
下鴨ロンドにて
https://linktr.ee/shimogamo.rondo?fbclid=PAZXh0bgNhZW0CMTEAAaY2EAYvYUNi-oeS39lnAk7FHkXcr1RbO0pSEKs1i4-JrPqwpZ9XB5OA800_aem_6ErHMn4eVM4vZr4jb8Ac6w
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