昨年から、予定の合う日は、ウイリアムス神学館で行われている読書会に参加しています。扱われている本は、NTライトという聖書学者の書いた『シンプリー・ジーザズ』というもの。
そのウイリアムス神学館館長に以前、読書会についての寄稿を依頼していただきました。その時に書いた文章が出てきたので、ここで改めて振り返る契機とします。
NTライト読書会も2月で終わり。また次回も、みんなで良い思索ができたらなと思います。
ウイリアムス神学館ニュースへ寄稿(NTライト読書会について)
タイトル:
自分の思いを否定しない。同様に、他者の思いも否定しない。相手が自分と同じでないことを恐れない。
NTライト読書会では「世界観」「ストーリー」という言葉がよく出てきます。それらは、私の関わる分野でもあるメンタルヘルスや心理療法の領域でも近年よく話題に挙がるものです。世界観とは「その人が見ている世界」、ストーリーとは「その世界観を支えている思い出やその人が大切にしている考えひとつひとつ」のことを指すと私は理解しています。この本(『シンプリー・ジーザズ』)は、読書をする上で、また文学・歴史としての聖書に向き合う上で重要な指標となる「批判的実在論」という姿勢を一貫して示しています。とってもざっくり言うと、“なじみのない価値観や自らと相容れない主張に対して、開かれた姿勢を保つこと”ということができるのではないかと思います。本文中では以下のように書かれています。「どのようなバック・グラウンドを持つ「観察者」も、自分の世界観に合致しない出来事が存在する可能性、自分の予見している枠組に当てはまらない出来事が存在している可能性を受け入れる必要がある」。裏を返せば、意識的に努力しないと私たちは“そう”できない。あらゆることを無意識に取捨選択している。それはあらゆる読書(聖書を含む)で同様であり、その人間の性質の中で、他宗教を含むあらゆるなじみのない価値観や自らと相容れない主張に対して、開かれた姿勢を保つことが多様性の受容であり、本文中にもある「愛の解釈法(批判的実在論)」ではないか、と思います(当然、人の尊厳を害する差別や暴力的思想に対しては閉じた姿勢、強い拒否を社会全体で示す必要がありますが)。そして“開かれた姿勢を保つこと”は他者に迎合することではなく、「私はこう」「あなたはそう」「I’m OK」「You’re also OK」ということ、つまり「相手が私と同じでないことを恐れないこと」と換言できるのではないでしょうか。目の前の人間を認め、違いを楽しむことはそれでもできるはずだ、と経験からも思います。“そこに(心身ともに)生きている人がひとり居るなら、(それが宗教という枠であってもなくとも)その人が大切にしている思想・考え方は必ずある”のですから。本文中に“読書は新たな光の下に立つこと”という表現がありました。この読書会を通じて“新たな光の下に立”ち、それによって新たな世界観やストーリーが照らされ、“開かれた姿勢を保つ”技術の練達に繋がれば、と思っています。この集いに参加できる幸いに感謝しています。私が、またすべての人々が、可能な限り自らの思いも他者の思いも否定せず、暮らしていけますように。
使用文献:『キリスト教の起源と神の問題1新約聖書と神の民 上巻』NTライト著、山口希生訳、新教出版社
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