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第四十五候 玄鳥去(つばめさる)
9月18日〜9月22日頃
燕が南に渡る時期
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この夏巣立った燕たちが南方への長い旅に出るこの時節に、思索の射程を延ばすことについて考えている。
木作りの机や椅子、褪せた扉、土作りの器、硝子工芸、奥行きのある絵画や写真、空間を形作る演奏など、自分がひとの手を感じるものに言いようのない感慨を感じるのは何故なのだろう。思うに、それらひとつひとつに、途轍もない記憶と思いの射程があるからではないか。暖かい、もしくは熾烈な、もしくは寂寥とした記憶の積層を、そこに感じるからではないのだろうか。
記憶や、ひとを心配する思い、祈りなどは、目に見えないもの*の代表格だ。目に見えないものは物理的に掴むことはできない。物理的に持ち運ぶこともできない。
けれど、記憶を持つ、思いを持つ、祈りを持つことはできる。そしてまた、他者へ記憶を、思いを、祈りを届けるための水路を引くことはできる。
たとえば、私が悩み、苦しみ、悲しみ、つらさの中にいるとき、ひとから思いの籠もったモノを貰うことがある。モノは物質的にはモノでしかない。けれどそれは、受け取った自分にとって、ただの物質的なモノ以上のものになる。与えられたものを見て、心慰められることも、強められることもある。
お互いの間の信頼が強ければ、この水路はモノを媒介しなくてもよくなる。「あのひとが、自分のことを確かに思ってくれているだろう」と思えること、それ自体が二者間の水路となる。それはとても貴重なことだと思う。(『蟲師』**の「隠り江」に出てくる、ひととひとの水路を行き来する“かひろぎ”という蟲を思い出す。わたしたちはかひろぎがいなくても、わたしたち自身の精神性でもって、繋がることができる)
私は、下鴨ロンド***という築90年を超える洋館の、リビングで、和室で、二階大部屋でひとり過ごすとき、暖かい記憶の積層に包まれているように感じる。かつての、また現在のわたしたちの思いの積層に触れる心地がする。死者と生者の繋がりを感じる。
そこには豊かに水路が通っているのだろう。長い間、この建物はひとの出入りがわずかで、その水路には水が通ってなかったかもしれない。けれど、私たちがひとりひとりで、また、三々五々集うことで、白露が結ばれるように、水が再び満たされはじめたのだろうか。
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参考文献・資料:
*「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」, サンテグジュペリ, 『星の王子さま』, 岩波文庫, 2017年, https://www.iwanami.co.jp/book/b297935.html
**『蟲師』, https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000030168
***下鴨ロンド, https://linktr.ee/shimogamo.rondo
山下 景子, 『二十四節気と七十二候の季節手帖』, 成美堂出版, 2013年. https://www.seibidoshuppan.co.jp/product/9784415314846
(仲秋、白露・末候、第四十五候 玄鳥去(つばめさる))
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