ーーーーー
第十八候 牡丹華(ぼたんはなさく)
4月30日〜5月4日頃
牡丹の花が咲く時期
ーーーーー
夏の足音が聞こえてきた。先日、『贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学』第2回の読書会を終えて、世界観再構築における愛の自覚、受容の自覚ということを考えた。
心身が生きることを可能にする、愛されているという自覚を人は何から得るのか。それは自己からではなく、他者からである。人は他者を代理として(他者を通して)自らを愛することができる。ただし他者を、生きている人間にしてしまっては、不安定性が高く危険でもある。
そうすると現れるのが、神や仏といった揺るがぬ超越者による代理である。ただしそれは、神や仏でなくてもよいのではないだろうか。友人との暖かい関係の記憶を自らの中に積み重ね、超越者代理として立てることもできる。それらは、常に助力的であり、不変である。友人が変化しようとも、記憶と、その時生じた現象のすべては不変である。
「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る*」とあるように、人は食物のみで心身ともに生きることはできない。精神的な糧を必要とする。ただし、何を「神」および「神の口」とするか、私たちは考えることができる。
私たちは愛されている。わたしたちは光の子ども*である。そのことを、代理の助けを得ながら主観的に不変のものとする。そして、そこから動き出す。それが、今回の課題図書が言う、”資本主義を突き抜け“、経済交換に偏っている社会を、相互贈与(相互-意図なき贈与)に傾けるための一歩である。そのように私は受け取った。
第十八候は、夏に向かう、光溢れていく季節である。しかし、光が強ければ必定(ひつじょう)闇も深くなる。何かに傾き過ぎれば、排斥されるものが現れる。経済主義(交換主義)全盛のこの世に、意図なき贈与の芽を自らの内部に、また外部に見出し、私的に無理のない範囲で実践できればいいなと思う。
*人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る-新約聖書、マタイによる福音書4章4節
*光の子ども-恩田陸『光の帝国 常野物語』p131~132「僕たちは、光の子供だ。どこにでも光はあたる。光のあたるところには草が生え、風が吹き、生きとし生けるものは呼吸する。それは、どこででも、誰にでもそうだ。でも、誰かのためにでもないし、誰かのおかげというわけじゃない」「僕たちは、無理やり生まれさせられたのでもなければ、間違って生まれてきたのでもない。それは、光があたっているということと同じように、やがては風が吹き始め、花が実をつけるのと同じように、そういうふうに、ずっとずっと前から決まっている決まりなのだ」「僕たちは、草に頬ずりし、風に髪をまかせ、くだものをもいで食べ、星と夜明けを夢見ながらこの世界で暮らそう。そして、いつかこのまばゆい光の生まれたところに、みんなで手をつないで帰ろう」
「note始めました。いまのところ内容はこちらのサイトとほとんど同じですが、いずれnoteだけに挙げるものもあるかもしれません。よければフォローいただけるとうれしいです。」https://note.com/nnwwjd/n/nbf25dd40a279
参考書籍:
山下 景子(2013年)『二十四節気と七十二候の季節手帖』成美堂出版https://www.seibidoshuppan.co.jp/product/9784415314846
(晩春、穀雨・末候、第十八候 牡丹華(ぼたんはなさく))
コメント