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第十候 雀始巣(すずめはじめてすくう)
3月21日〜3月25日頃
春分を過ぎ、雀が巣を作り始める時期
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桜の季節に寒さの戻る、花冷えの今年。恵文社にて出版記念の対談に参加した。
対談テーマは「不確実の海に飛び込んでも大丈夫。本と一緒なら」というもの。登壇者は社会福祉学研究者の竹端寛さんと、奈良にある私設図書館ルチャリブロの青木海青子さん。
対談の中で特に印象に残ったのは、「大人になってファンタジーを読むことは、此岸(しがん)と彼岸(ひがん)の追体験になる」という言葉だった。
この世のこちら側である此岸と、あちら側の彼岸。春分のこの候は、日本仏教において極楽浄土(あの世)に最も近づく時期と考えられ、春彼岸とも呼ばれる。
彼岸とは何であろうか。字義通り読めば、あちら側の岸。川を渡った向こう側。仏教用語的に言えば、こちらの岸がこの世で、あちらの岸があの世、ということになる。
それではあの世とは何であろうか。この語は一般的には、現世と切り離された死後の世界を指して使われる。しかし、あの世的なものは現世から隔絶しているのだろうか。この世とあの世には、何の関係もないのだろうか。わたしは、平生暮らしているときには知覚することが難しい範囲すべてを、あの世の相の一部と捉えている。
ファンタジーを読むことであの世(彼岸)に触れる追体験ができるように、文学に、音楽に、絵画に、自然に触れることによって、ときおり生起(しょうき)する感覚がある。あの世の相、もしくはこの世的なものから離れた相と溶け合う感覚がある。それを、観想体験といってよいかもしれない。
観想の感覚に親しむためには、過去や未来ではなく、今ここに起きているもの、見えているものに集中する必要がある。坐禅やマインドフルネスは、今ここに意識を戻す練習になるものだ。
観想体験は、些末なことを消し去る。そのいっときでも、完全な充足感を持って消し去る。それを指して、「世界と一体になる」ともいい「無我の境地」ともいうのだろう。その表現が的を射ているかどうかはともかく。
死にたいとき、本当に死ぬことは難しい。けれどわたしたちは、観想のような手段を遣って、平生使っている意識から離れることならできるのではないだろうか。それができたなら、あらゆる生き物が抗(あらが)いがたく個として存在していると同時に、全体としてはひとつであることを感じられるように思う。
蕾をほどく桜の樹
桜の蜜を啄(つい)ばむ雀の群れ
雀を見やりながら、澱みなく流れる川
川のせせらぎを聴きながら、絹のように下りる夜の帷(とばり)
わたしは、彼岸の相に近づく体験に詳しくなりたい。
春彼岸に於いて。
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参考:山下 景子(2013年)『二十四節気と七十二候の季節手帖』成美堂出版https://www.seibidoshuppan.co.jp/product/9784415314846
(仲春、春分・初候、第十候 雀始巣(すずめはじめてすくう) )
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