ーーーーー
第六候 草木萌動(そうもくめばえいずる)
3月1日〜3月5日頃
冬の間眠っていた草木が芽生え伸長する時期
ーーーーー
3月ともなると、いよいよ春の日間近という感じがする。
とはいえまだまだ余寒に凍える中で先日、友人と読書会の場を持った。テーマとしたのは『贈与論-資本主義を突き抜けるための哲学-』という本の第6章までである。
友人とともに話し進んでいく中で、私にとって重要だけれど、まだまだ言語化できていない概念のあることに気づいた。それは「自分が、贈与(与えること)をどう捉えているのか」ということだ。
私は多分、贈与を単なる経済活動として捉えたくないと思っている。つまり、「私があげたから、次はあなたが返す番だよ」という認識の伴う行為を、贈与として捉えていない。私が思うに、それは経済活動ではなかろうか。
私が思う贈与というのは、何かもっと根源的なものである。太陽が草木に与え、水が生き物に与えるように、物々交換の及ばない域のものをこそ贈与(もしくは無私贈与、意図なき贈与)と呼びたい。主体が与えたとも思っていないが、客体にとっては確かに与えられたと思えるもの。私は、そういったものを贈与として認識したいと思っているようだ。
人について、そういった贈与がありうるのかと考えてみると、ひとつそれらしきものが思い浮かぶ。
私はこれまでに、あなたがいるから私は生きるということができるのだ、と感じた経験がある。これは、関係性が切れれば反故になってしまうような性質のものではなく、その一瞬が永遠として作用する、自己内面に対して強い影響力のある感覚である。その時の感覚をもとに詠んだのが「わたしはあなたの代わりに生きていて、あなたはわたしの代わりに生きている」という詩であった。この詩は、生きることが相互作用として感じられた実感が元になっている。
この時、私は確かに相手から与えられている。その後の生や孤独に対して、未来永劫影響力のある精神的盾を。だけども、そんなものは与えようと思って与えられるものでもない。相手にとっても、自分が与えたのだという感覚はないだろうと思う。私にとって、純粋に贈与と思えるものは此れである。
このように人間関係において、「その人がそこにいる」ということだけで、周りの人がなにかを受け取っているという場合がある。人がお金やモノ、言葉を意図的に与える/与えないという次元とは別に、「人がそこに居る」ということ自体が贈与として機能することは確かにあると思う。
もっと身近な例でいうと「親しい人とまた会えた」「コミュニティに新しい人が来てくれた」といったことも、私にとっては贈与でありうる。「その人が居る」ということを喜べたとき、私の中には贈与される(相手から与えられる)肯定的な精神的影響がある。
現代の物質主義社会では、贈与というものはとかく交換の論理に回収されやすい。もちろん、交換という経済活動も現代社会において重要ではあるけれど、その枠組みだけに囚われるのではなく、精神的な面における贈与というものに目を向けたい。
人間にとって、見ようとしないものは無いものと同義となる。春の芽吹きにだって、気づかない人も多い。けれど世の中には、祈りや願い、親しい人を心配する気持ちや、目の前にいる人の存在を喜ぶ気持ちなど、見えないけれど価値高いものも多い。
土の中から木の芽萌す、目に見えなかったものが顕れる時候に、読書会を通して「与える」ということについて考えを深められたらと思う。
「僕たちは、光の子供だ。どこにでも光はあたる。光のあたるところには草が生え、風が吹き、生きとし生けるものは呼吸する。それは、どこででも、誰にでもそうだ。でも、誰かのためにでもないし、誰かのおかげというわけじゃない」
『光の帝国 常野物語』恩田陸著、p131,132
(文献:『贈与論-資本主義を突き抜けるための哲学-』岩野卓司著)
(初春、雨水・末候、第六候 草木萌動(そうもくめばえいずる))
コメント