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第二十一候 竹笋生(たけのこしょうず)
5月15日〜5月20日頃
竹が栄養を子に注ぎ、筍が出づる時期
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立夏も末候となり、青葉の耀(かがや)く季節。植物たちの元気さに気押されるような心地もする。先日お庭掃除をしたときも、新しい芽や葉、花を見やりながら、そんなことを感じた。
京都でも葵祭が執り行われ、新緑、開花、祭と、少し騒がしいくらいに思う。けれどどれも、小さい子の朗らかさのようにも思う。
明るいものに鬱陶しさや煩わしさを初めて感じたのはいつだっただろうか。記憶にある限りでは、幼稚園児の頃だったような気がする。運動会か何か、そういったハレの日で、私は「ハレの日に求められる仕草」をするのが嫌だった。具体的には、お菓子を持った先生たちの方に“みんなで”駆け寄ることを、暗に強制される場面が嫌だった。
人の明るさにはそういった側面がある。明るさが求める振舞いと態度を強要してくる側面が。けれど、わたしにとって多くの場合、その場が明るくても、同じように明るく在ることはできない。明るく振舞うこともできない。それは自分を偽ることであり、ひどく苦しいからだ。だから今でも、祭には少しだけ苦手意識がある。
そこから派生して、春や夏の明るさ、華やかさも、しばしの間苦手だった。明るさが何かを強要してくるような気がしていたから。しかし時が経ち、春や夏はそれ自体として流れているものでしかない、ということを徐々に諒解できた。竹は竹として過ごし、葵は葵の時を刻んでいる。躑躅(つつじ)も、思うように咲き萎れていくし、斑猫(はんみょう)や藪蚊といった虫たちも、それぞれの時間軸で生を過ごしている。
私にも私の時間軸があり、生きる世界観がある。わたしの世界観は、それ自体漂い、他のものに触れ合いながらも、独立して流れている。他者が無遠慮に触れるものでも、何かを強要できるものでもない。そう思うと、それぞれの時を過ごす植物の芽吹きや夏の香りをあまり煩わしく感じなくなった。
数年前にそう詠んだように、夏風は、かつてのような敵では無くなった。
逃げてきてTシャツ孕んだ夏風はいつかのような敵じゃなかった
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参考書籍:
山下 景子(2013年)『二十四節気と七十二候の季節手帖』成美堂出版https://www.seibidoshuppan.co.jp/product/9784415314846
(初夏、立夏・末候、第二十一候 竹笋生(たけのこしょうず))
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