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第十三候 玄鳥至(つばめきたる)
4月5日〜4月9日頃
燕が日本に帰り来たる時期
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4月のこの時節は、春惜月(はるおしみづき)とも呼ばれるそうだ。桜が散り、行く春を惜しむ気持ちが感じられる言葉。
また、日本で子育てをし、冬のあいだ南国へ渡っていた燕が、日本に帰ってくる頃でもある。燕との再会の季節。そして、雁(かり)は北へ、仲間たちと群をなして帰っていく。別れの季節。
惜しむということを考えたとき、私にはこの「出会いと別れ」ということが頭をよぎる。私たちは、誰かや何かと出会っては別れていくことを繰り返す。漫(そぞ)ろ歩き、桜や辛夷(こぶし)の花にまた逢える度に、そんなことを想う。
その中には、もう二度と会えないだろうという別れも多くある。遠くに旅立ってしまうことや死別が、そういったものの例として挙げられる。特に死別は予期しにくいものだ。そこには喪失の悲しみがある。
だが、死別に喪失だけを見なくともよいのではないだろうかとも思う。別れる前にはその人が居たということ、その存在に与えてもらったものを、改めて見つめてもよいように思う。また、死という線によって此岸と彼岸を分かたれたとしても、それは会えないということなのだろうか。逢えないということなのだろうか。
私たちが春に出会う桜の花や辛夷(こぶし)の花は、昨年見た花たちと同じ存在ではない。けれど私は、その花たちに「また逢えた」と思う。
私はいま生きていて、自他を尊重する誠実さやうつくしい苛烈さ、根源的な自律の精神などに出会う度、そこに今は亡き彼を見る。それらの感情や現象の揺らぎは、彼自身ではない。だがそれらの揺らぎの蜃気楼にかつての存在が立ち上り、「あぁ、また逢えたな」と思うことがある。そのことについて考えたい。
この、亡き存在の顕(あらわ)れは、私たちを個別性に切り分けて見た場合、事実ではないかもしれない。ただ私たちを、桜の樹の幹から枝が伸び花を咲かせるような、ひとつの全体性に連なるものとして見た場合、この顕(あらわ)れも、真実の相のひとつとして見ていいのではないかと思う。
最後に、桜の季節である今は、逢うことのできない金木犀を想って詠んだ詩を置いて、いま旅立つ人、これまでに旅立った人への私なりの餞(はなむけ)としたい。
金色に薫る星々を温かい水分帯びた瞳で送り出す 君じゃなくてもきっと会おう 「また来秋」
西村二架
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参考:山下 景子(2013年)『二十四節気と七十二候の季節手帖』成美堂出版https://www.seibidoshuppan.co.jp/product/9784415314846
(晩春、晴明・初候、第十三候 玄鳥至(つばめきたる))
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