第九候 菜虫化蝶(なむしちょうとなる)

エッセイ

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第九候 菜虫化蝶(なむしちょうとなる)
3月16日〜3月20日頃

菜虫が羽化して、蝶となる時期
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山笑う。

花がき、人がむ。

雪は解け、わらびが育ち、蝶は舞う。

 

冬に眠っていた山が徐々に目覚め、山が笑うと言われるこの頃。空気がぬるみ、草が立ち、新年度が近づき、溌剌はつらつとするものがたくさんある。

花が笑うように、笑う人もいるだろう。花が笑い、人が笑っているのを見て、項垂うなだれる人もいるだろう。

 

春の象徴のひとつである蝶は、荘子「胡蝶の夢」から夢見鳥とも呼ばれる。「胡蝶の夢」では、荘子は夢の中で蝶として舞っている。そのとき、荘子は荘子でなく蝶である。そして目を覚ます。そのとき荘子は、人間としての荘子である。はたして彼は、夢の中で蝶になっていたのか。それとも蝶が、荘子の夢を見ているのか。

わたしはいま、現実の世界を生きていると思っている。しかし、現実とは何か。わたしはいま生きて、身体を持ち、この身体と精神が知覚できるものしか知覚できない。その外に何があるかは、宇宙の外に何があるかわからないのと同じくらいわからない。宇宙の外には多元的宇宙という、わたしが住む宇宙とは別の宇宙が無数に存在しているとも聞く。しかしそんなものは、少なくとも現代の科学では推測の域を出ない。

いま居るこの宇宙と、外にある多元的宇宙は、わたしの生と死に近しい。わたしの精神の知覚できるものと知覚できないものに近しい。

知覚できないものについては、断言することができない。「ある」とも、「ない」とも判断することはできない。

哲学者ウィトゲンシュタインであれば、語ることができないものについては沈黙すべきだ、と言うだろう。だがわたしは故あって沈黙はしたくない。

生きているこの世界の外、身体でも精神でも知覚できないものについては、わたしたちに広範な想像と解釈の余地が残されている。死んだ後、意識は霧散すると思っていてもよい。死後、親しい人や動物たちが天国で迎えてくれると思っていてもよい。死を迎えたら、自我はなくなり、生命の光に吸収され、輪廻を巡ると思っていてもよい。

ただひとつ大切なことは、その想像と解釈の下でわたしは生きやすいか、ということ。身体と精神が知覚できるものは、解釈はどうあれ、現象自体を変えることはできない。しかし、起きたことや見えるものをどう解釈するか、死後をどう想定するか、その想定によって世界はどう変わるかといったことについては、わたしたちの手の中にある。

 

花笑うとき、人は笑う。

花笑うとき、人は泣く。

山笑うとき、人は人を生かし、

山笑うとき、人は人を殺す。

世の中がどうあれ、わたしはわたしの解釈を推敲し続けながら持ち、行動し、わたしはわたしの世界を過ごす。他者は他者の世界を生き、わたしはわたしの世界を生きている。けれどわたしは、山笑うとき花笑うとき、その陰には、決して笑うことができない人がいるということを常に解釈のうちに携えていたい。仮にわたしがどれだけ笑うことができるようになったとしても。

 

 

 

 

 

 

参考:山下 景子(2013年)『二十四節気と七十二候の季節手帖』成美堂出版https://www.seibidoshuppan.co.jp/product/9784415314846

参考:WIRED「ホーキング博士、最後のセオリー:彼が多元的宇宙について考えていたこと」20240315
https://wired.jp/2018/04/10/hawking-last-theory/

(仲春、啓蟄・末候、第九候 菜虫化蝶(なむしちょうとなる))

プロフィール

1992年生まれ。京都在住。
精神保健福祉士、文筆家、英語講師、ライティング講師。
英語や京都、メンタルヘルス分野を中心に、企業等でフリーランスとして執筆を行なう。
また、塾や就労移行支援施設で講師として活動している。
ライティング、英語、英会話、カウンセリングの個別相談にも対応。
TOEIC920点、精神保健福祉士(国家資格)を保有。
死生観について在野、たまに在学で思索中。
趣味はチェロやギターの演奏、紅茶、京都散策、建築探訪、美術館巡り。
(撮影:橋本優馬)

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Nika Nishimura

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